★ 私儀、甚だ多用にて ★
★ 第63章(最終回) ★
★ 1 ★
「うわぁぁぁ」
大声で悲鳴を挙げながら久五郎は土間へ倒れた。
「久五郎?どうすた?」
声に丈右衛門が目を覚まし、こちらを覗く。男はひぇぇと声にならない声をたてて尻餅を付いた。
巻紙はすでに久五郎の指先から離れ、三和土に落ちていた。国倫は急いでそれを懐中に仕舞うと、顔にかかった血を袖でぬぐった。細かい飛沫だった赤が広がって、蒼白な頬へ紅を加えた。
「い、いっだい、何だす、こ・・・」
丈右衛門の唇は震えてうまく言葉が出てこない。
「行け。出て行け」
「な、何だす・・・」
「早く行け!」
国倫は刀を振った。切っ先が丈右衛門の手に触れ、彼の指から血が吹き出した。丈右衛門はわぁと叫び、心張り棒をはずして外へ逃げた。すぐに番所から役人が来るだろう。
「先生?」
要助が目を覚まし、下男部屋からごそごそと起き出す音がした。
『国倫、先に書類を処理しろ』
李山の冷静な声が響いた。今の状態で役人でも要助にでも拉致されれば、書類が明るみに出てしまう。書類の破棄が最優先だった。
燃やしては、火事を出して多くの者が死ぬ危険がある。国倫は手水場へ駆け戻ると、邪魔にならぬように一旦刀を廊下に置いた。そして書類を細かく契って桶の水で濡らしてから、厠の深みへと放り込んだ。濡らしたことで糞尿に混ざるのも早まるだろう。
夢が、クソにまみれて溶けて無くなる。お笑い種だ。自分の夢に相応しい最後だ。
刀を握り直すと玄関まで戻って久五郎の様子を確認した。青年は白目を向いて倒れ、額の血が目に流れ込んでいた。ぴくりとも動かない。ガタガタと下男部屋の戸が開く音がしていた。要助に止められる前に、きちんと腹を切らねばならない。慌てて座敷へ戻り胡座をかくと、着物の前を開き、長刀を握り直した。
『馬鹿野郎、脇差しでやるもんだ』と李山が舌打ちをする。
「まあ、何でもいいじゃろ。斬れれば」
長刀を腹へ当てようと手首を返した時、玄白の顔が浮かび、約束を破ってしまったことに胸が痛んだ。もう二度と、自ら命を断たぬと誓ったのに。
「源内先生っ! 早まらないでください」と、その隙に要助が飛び出した。刀が要助に触れると危険だ。国倫の手の勢いが弱まり、刀は半端に腹を掠った。
脳天を突くような鋭い痛みが左腹に走った。切っ先は腹に達したが、深い傷にはならなかった。どろりと暖かいものが腹をしたたり太股を濡らした。
「先生っ!」
要助は手にすりこぎを握っていて、それで国倫の腕を叩き、刀を落とさせた。久五郎の惨状を見て厨房にあるもので咄嗟に武装したようだ。畳に落ちた剣をすりこぎが遠くへと打った。剣は畳を流れ、柱に刺さって止まった。
「ご無礼致します」
要助は国倫の背中を蹴り倒し畳へとうつ伏せにさせると、背の上に乗りかった。
「後生です、御自害はお止めくださいっ!」
すりこぎで殴られた腕が痛み、要助を押し返す力は出なかった。
「人斬りがあったと聞いたが!」「何がどうしたのだ!」
丈右衛門は番所に行く前に近所に大声で触れたようで、早くもぱらぱらと人が訪れた。彼らは様子を知って国倫を紐で後ろ手に縛った。
国倫は腕を後ろに回されたままで、倒れた久五郎の様子を窺う。白目を向いた瞳はそのままだが、唇がわなわなと動いたのに気付いた。まだ息がある!
しまったと思うが、もうどうにもできない。手入れをしていない剣なので切れが悪かったのか。
「この若いの、まだ息がある! 医者を呼べ!」
駆け付けた男の一人が要助に命じ、要助は慌てて遣いに走った。
久五郎が息を吹き返すことを想像すると、恐ろしさで身悶えしそうだった。何の為に刀を振り降ろした。大馬鹿だ。自分はいつも詰めが甘いのだ。
だが額を割られて助かるわけはないと、国倫は自分に言い聞かせた。そうでも思わなければ、気が触れてしまいそうだった。いや、冷静になれ。助かるわけはないのだ。
問題は意識を取り戻して何か喋るかだ。
この状態では意識は取り戻すまい。いや、お願いだ、取り戻してくれるな。とどめを打てなかった後悔が残る。
どくんどくんと、首の後ろが音を立てた。初めて腹が痛んでいるのに気付く。流れ出た血で濃紺の着物が暗い茶色に染まっていた。
国倫は次第に意識が遠のき、眠りに付く様に崩れた。
目覚めると左の脇腹が燃えるように熱かった。痛いというより熱い。
天井と正面の壁が目に入った。狭い部屋だが牢ではない。長屋の一室のようだ。
夢、だったわけはない。右腕と脇腹の痛みが証拠だった。
「気がつかれましたか。丸二日眠っておられました」
灰色の作務衣、儒者頭の青年がほっとした表情で真上から顔を突き出した。獄医だろうか。
「治療の為に、役人長屋の一室を空けて貰いました。申し訳ないが、これから揚屋へ入っていただくことになります」
背には綿の感覚がある。きちんと布団に寝かされていた。着物も血まみれでなく、新しいものを着せられている。手鎖も無い。囚人のことはよく知らないが、いくら士分でもこの扱いは良過ぎるのではないか。
「千賀、か?」
声を出すと脇腹が痛んだ。
「・・・千賀様は、私のだいぶ前にここでお勤めだったそうですね」
道有は、早速最善を尽くしてくれたようだ。
「久五郎は・・・どうしよった?」
「残念ながら、医者へ運ばれた後、意識も戻らずすぐに亡くなられたそうです」
「そうか・・・」
秘密が暴かれること無く済んでほっとすると同時に、ついに自分が人を殺めてしまった実感に襲われて背筋が震えた。
医者は窓を開いて「平賀様が気がつかれました!」と役人を呼ぶ。
「歩くのがつらければ、戸板でお連れしますが」
「いや、大丈夫じゃけん。体を起こすのだけ手伝いんしゃい」
腹と片腕に力が入らず、半身を起こすのは容易ではなかった。医者に背を押して貰うが、脇腹は叫び声が出そうなほどに痛み、歯を食いしばった。体を起こした後は、手を借りてゆっくりと立ち上がった。
足元がふらつき、思わず壁に手を置く。腕がずきりと痛んだ。めくれた袖から覗く腕は、痣になって少し腫れていた。武助が骨をやられたのと同じ箇所だ。国倫の方は痛むだけで動きに支障はなく、ただの打撲だ。
「外は寒いですので」と、医者が肩に羽織をかけた。これも道有からの差し入れか。
役人二人に連れられる形で、国倫は揚屋へ向かった。歩くと腹の傷が痛み、役人の速度に付いていけない。だが急かされることもなく、役人らは国倫の歩みに合わせてくれた。人殺しの自分がこんな親切を受けていい筈がない。小突かれ、罵られ。それが相応なのにと歯がゆく思った。
入れられた牢も、士分用の揚屋は町人らの大牢とは違い、三畳分もの広さを一人が使えた。入牢者が少ないせいもある。揚屋は、畳をはがして牢名主が積んだりが無いせいもあった。
横になると起きるのが大儀だ。国倫は壁に寄りかかった。
先に牢に居る数人は、距離をおいて座り、本を読んだり書をしたためたりをしていたが、時々ちらりちらりとこちらを覗き見る。目が合うと逸らすが、新参者を値踏みするのか、それとも平賀源内だと気付いて驚いているのだろうか。
牢への差し入れも許されていた。着物は、お仕着せもあるがその上に綿入れを羽織る者、自分の長着を着ている者もいる。本も筆記用具も受け取ることができた。
食事は大牢よりも良いものが出され、粗末な風呂だが定期的に体も洗えると聞いた。
だが、国倫も李山も鳩渓も、ここで快適な揚屋生活を楽しむつもりは無かった。久五郎は罪も無いのに死んだ。自分に殺されたのだ。福助のようなえくぼの、まだ前途ある若い男だったのに。自分に好意を抱いていてくれたのに。
自分も、生きているつもりはなかった。
腹の傷は縫ったようで、引きつった皮膚の痛みが伴う。国倫は腹に巻かれた晒をするすると解き、傷に当てられた薬を油紙ごとくしゃくしゃに丸めた。傷など治らなくていいのだ。久五郎の額の傷は、もっと痛んだことだろう。
何も食べなければ、四十日位か。水も飲まなければ二十日ほどか。怪我で弱っていれば、もっと早く逝けるかもしれない。
気を抜くとふうっと意識が遠くなり、眠ってしまいそうだった。あまり眠ってもいけない。眠ると回復してしまう。背に冷たい壁を感じながら、それでも国倫は睡魔に勝てず、座ったまま眠りに落ちた。
★ 2 ★
低く「平賀さん」と呼ばれた気がして目が覚めた。格子のところに道有が佇んでいた。手燭の灯が丸くぼんやり揺れる。今は深夜のようで、他の囚人達の寝息や鼾が聞こえていた。
「飛んだ事になりました。事情は承知しているつもりです」
頭に頭巾を被っているのは、金を積んだ役人以外には身元を知られたくないからだろう。格子越しに小声で囁く。頭巾も有り、声は聞き取りにくい。
「久五郎は、全く意識を取り戻しませんでした。丈右衛門は軽く指を切っただけです」
「丈右衛門は何も知らん。アレを見てもいない。アレも処分した」
「庇っているのでは?」
「まさか。奴を庇うくらいなら、初めから久五郎を斬ったりせんで。守るものは守ったけん」
「・・・それを聞いて、息子もほっとするでしょう。
暫しここで我慢していただければ、息子らの力で何とかできるかもしれません」
「言っておくが、おんし、余計ん策略はするなで。わしは久五郎を殺めたんじゃ。その罪は負わねばならんじゃろう」
その言葉に驚いたのか、道有は瞳を見開いた。瞳が「まさか」と問うようだった。友がそんな決意をしていようとは、考えてもみなかったようだ。
罪は罪だ。どんな大儀の為だろうが、自分は人を殺したのだ。
それに、田沼を・・・田沼の『時代』を守る為にしたことだ。自分を救う為に田沼に危ない橋を渡らせるわけにはいかない。
道有は困ったように視線を泳がせていたが、「また来ます」と引き下がった。極寒の伝馬町を知らない者の見栄だと踏んだのかもしれない。数日ここを体験すれば、考えが変わると。彼はこの場所のつらさを熟知した医者だった。
「もう来るな」
国倫から舵を代わった李山が言い放つ。
「頭巾で身元を隠して。見て潔いものではない。余計に人は詮索するだろう。貴様が俺の守ろうとした者と深い関わりがある以上、もう来ない方がいい」
「・・・。」
道有は言葉を無くし、唇を噛んだ。頭巾からのぞく瞳が涙で濡れていた。何にも動じない男だったが。この男が泣くのを初めて見た。さすがの李山も胸が詰まった。
「済まぬ」
「謝らないで下さい。謝られると惨めになります」
どれほど自分を愛してくれていただろう。どれほど尽くしてくれたろう。道有には幾ら感謝しても足りない。
「では・・・礼を言おう。今まで本当にありがとう、と」
「止めてください、私を泣かせる気ですか。悪い趣向ですよ」
とうに、滂沱の涙を流す道有であったのだが。
「差し入れに何か欲しい物はありますか」
「本を何冊か。軽い戯作がいい。あれこれ考えずに済むような」
「わかりました。・・・お薬は差し入れしましょうか?」
それは、死に至る毒のことだろう。早く楽にという道有の思いやりだ。だが李山は首を横に振った。
「不審死なら、差し入れした者は真っ先に疑われる。貴様が罪に問われるわけにはいかぬだろう?」
道有はうつむき、諦めたように立ち上がった。
「承知しました。
では、これがお別れです。全く・・・最後まで、困ったひとだ」
頭巾の目許が微かに笑ったよう細められた。手燭の丸い灯が揺れ、少しずつ遠ざかって行った。
最初の数日、友人らからは次々に差し入れがあった。届けられたのは、文士や趣味人らの悪趣味丸出しの品物だった。派手な女物の着物や、羽裏に笑い絵の描かれた羽織。これらを獄中で羽織れというのだろうか。本も艶本に心中物。世間では、源内が久五郎と無理心中を計ったというような噂が流れているのかもしれない。しかも本の中にそっと男色の枕絵が折って忍ばせてあったりするのだ。
李山はどれも受け取らず、当人に返却してもらった。遺物がこんなのばかりになるのは御免だ。役人のところではじかれた物も有るようで、一体どんな物を差し入れたのか空恐ろしくなり、つい苦笑した。
彼らは、源内が有力者のツテですぐに出られると、軽く考えているのだろう。悲しませることになるだろう。済まないと思った。
玄白と淳庵から面会の申込みもあったのだが、それも断わった。日本一の蘭方医の、その友人が殺人犯だなどと。どのツラ下げて玄白らに会えるというのだ。彼らの蔑んだ表情を見るのが怖かった。いや、本気で心を砕いているとしたら、その方がつらい。友の悲しみの表情を見たくない。
李山らは出された食事に手を付けなかった。
「源内先生、食べないと怪我が治りませんよ」
親切に声をかけてくれる囚人がいたが。このまま衰弱死する計画だとも言えない。
「腹の傷が痛むのだ。よかったら、どうか替わりに食してくれませぬか」
人に食事を譲り、絶食を通した。
怪我のせいなのか、取り調べはまだ全く行われなかった。もっとも、役人に呼ばれて何を聞かれても答える気はないが。経過を見てということになっているのかもしれない。
実際に食欲は湧かなかった。夜はかなり冷え込むが腹の傷だけは熱く、背や腰は寒さでギシギシと痛んだ。厠に立つ以外は、ずっと壁にもたれて足を投げ出して座り、本を読んだ。
だが、日々が過ぎるうちに、文字を追っても朦朧として、頭にも言葉が入らず、すぐに本を閉じるようになった。
最初の頃は毎日獄医の診察が有った。獄医は「貼り薬は鬱陶しくても取らないでください」と連日律儀に注意をして新たな薬を塗布したが、患者がすぐに油紙を外してしまうので、十日もすると何も言わなくなった。事務的に傷口を診て、薬だけ塗って出て行く。
師走に入ったと聞いたのは、何日位前だったろう。年が明ければ長崎へ・・・阿蘭陀へと向かう筈だった。全く、天国と地獄だと苦笑する。
唇が乾いて切れてひりひり痛んだ。ここへ入って二十日ほどたったのだろうか。何も口にしていないのに、何故まだ死なないのだろう。
『代わりますよ』
今日は鳩渓が舵を代わった。舵を握る者に直に痛みや体のだるさが伝わるので、三人は交代で痛みを分かち合った。
鳩渓は、李山が閉じたところから本を開き、続きを読み始めた。志度にはそろそろ噂が届いた頃だろうか。母も里与も詳細がわからず、さぞ気をもんでいることだろう。
『ほっこ(阿呆)。まことの詳細を知りよったら、よけい心配するわ』
国倫が茶々を入れた。
昼間でも震えて指がうまく本をめくれなかった。冷えのせいでなく、寒気が止まらない。何も食っていないのに吐き気がした。
傷は既に脇腹だけでなく腰全体に熱を持って火照る。どくんどくんと血が巡る音が聞こえた。血が巡る度に、この傷から体中に毒素が流れ込んでいる気がした。体が鉛のように重く、息を吸う力も乏しかった。喉が痛くて口で息をしても苦しい。
ここ数日は喉が腫れているのか、口が開きにくいのだ。本を読む途中に、目の疲れなのか微かに目尻が痙攣を起こした。『傷が風に当たってすくむ』病、破傷風の初期症状に似ていることに気付いていた。
あと少し。きっと、あと少しの辛抱だ。もうすぐ地獄の門が開く。
「平賀殿、面会だ」
役人の声にゆっくりと振り向く。
「面会は全て断わって下さい」
口が開かないので、不明瞭な発音になった。返事してから、鳩渓は何度もまばたきした。格子の向こう、役人の隣には既に玄白が立っていた。玄白が役人に裏で金子でも握らせ、強引に面会に来たのだ。
「玄白さん・・・」
立つ体力も無く、鳩渓は座ったままでずりずりと畳二畳ほど移動し、格子の側まで近づいた。
「鳩渓さん、こんなにやつれて・・・」
玄白が格子へと手を伸ばすのを、番人の棍が制した。玄白ははっと手を引っ込める。付き添った役人がすまなそうに、「囚人とは接触しませんように」と注意を促した。
「物の受け渡しも禁止です。差し入れがあればこちらで一度受け取り、中身を確認してから本人にお渡しします」
「すみません、不用意でした」と玄白は頭を下げた。
自分の顔が見えない鳩渓は、玄白こそやつれたと思った。頬がこけて頬骨が目立ち、泣き腫らした瞼は小さな瞳をぷっくりと覆う。
「玄白さんらしくないことをしましたね。まさかこんな方法で」
生真面目な玄白は、裏金など嫌う男だろうに。
「こうでもしなければ、あなたは会ってくださいませんから」
「道有さんか甫周さんあたりから、わたしの容体を聞いたのですか」
「・・・。」
玄白は黙ってうつむいた。黒目がちの瞳からは、今にも涙が溢れそうだった。
もう長くないだろう。そう聞いて、無理して会いに来たのだ。
「ありがとうございます。わたしも、会いたいと思っていました」
その言葉に、玄白は耐えられず掌で顔を覆った。細い肩が震えた。友をこんなに悲しませて。つくづく親友失格だと、鳩渓はため息をついた。
「玄白さん、あなただから頼めるお願いがあります」
「何でも。何でもおっしゃってください。この玄白、命に代えても叶えて差し上げます」
玄白は涙に濡れた顔を上げて、切羽詰まった声を出す。
大袈裟じゃなあと、国倫が内で笑った。玄白の誠実な性格ゆえの深刻さだった。懐かしくいとおしい反応だ。李山も、微かに微笑む。鳩渓も釣られて微笑んだ。
「そんな大層なことではありませんよ。志度の家と親友の桃源に、事件のことを知らせて欲しいのです。無責任な噂であれこれ心配させるより、事実だけを淡々と知らせた方がよいと考えます」
長く喋ると息が切れた。舌がもつれ、ろれつが回らない。唇を正しく動かす努力で疲労した。
「私が・・・」
「つらい役目だと思いますが、申し訳ないです」
「いえ、そんな。他に私に出来ることはありますか」
「会えただけで十分です。・・・この症状は破傷風か?」
口調が変わり、玄白ははっと顔を上げた。一瞬で李山が舵を取ったのだ。
「喉が痛んで口が開きにくいのですね。顔の痙攣は?」
「今のところは、片目が時々引きつる」
玄白は冷静に「おそらく。その可能性が高いです」と告げた。致死率の高い病気だ。症状が出てから七〜十日位で激しい全身の痙攣を引き起し、死に至る。
「症状が出てどれぐらいですか?二日目位ですか」
「わからん。たぶん、そんなもんだ」
早ければあと五日位で逝けるらしい。
「色々と世話になったな。時間も余り無いのだろう? 国倫に代わる」
「李山さん」
李山は湿っぽくなるのを嫌い、さっさと切り上げた。
頬も目の周りも落ち窪み、灰色の顔色。それでも、いつもの表情はわかる。人懐っこく瞳に笑みを浮かべる、そのひとの表情は。
「ようここまで来たのう。ありがとうなあ。無理したんじゃろ?」
玄白はその口調に、声も出ずに喉を詰まらせた。
「約束を破ってしもうた。わしは腹を切ろうとした。もう二度と自らを傷めぬと、おんしと約束したんに。ごめんまいで。許してくれるじゃろうか?」
うんうんと、玄白は下を向いてただ頷く。手の甲に涙がぽとぽとと落ちた。
「これは罰でしょうか。私が自分に素直でなかったことへの」
「そなんこと。罰を受けるんはわしじゃけん。わしは、素直に生き過ぎたかもしれん」
ああそうだと、国倫は笑顔になった。わがままに、随分と好きなように生きた。叶った夢も叶わなかった夢もある。ただそれだけだ。阿蘭陀へ行けなかったからと言って、悲嘆することもない。きっと、国禁を侵すような大悪事には向いていなかったのだ。
「私に・・・何か・・・できることはないですか?」
玄白は嗚咽混じりに声を絞り出すと、手を下へ降ろした。袖から胡桃の実がころりと落ちて、畳を転がり国倫へと近寄る。わざと投げ寄こした風だった。
その胡桃には繋ぎ目が見えた。一度割って糊で付けてある。実を外して密封したものは・・・たぶん、国倫を楽にしてくれる薬だろう。
潔癖な玄白にここまでさせてしまった。命を救うことを喜びとし、誇りを持って仕事をするこの医師に。済まない想いで涙が滲んだ。
「玄白さん。わしには必要ないもんじゃけん。・・・持ち帰りんしゃい」
最後だけ小声になり、役人に見えぬようにそっと格子の方へ指で弾き返した。
「痛みも苦しさもあと数日じゃけん。わしを数日分楽にする為に、おんしはこの先一生苦しむんと違うんか?似合わんことは、せん方がええよ?
じゃが、気持ちはありがたい。ほんまに、ごじゃ(無理)したけんなあ」
玄白は国倫の言葉に首を横に振ったが、諦めて静かに手を伸ばし、胡桃を取り返した。背後の役人に気づかれた様子は無い。
貰ってこれをすぐ使えば玄白から受け取ったとすぐわかる。数日たってからでは、もう必要なくなっているだろう。手元に残った胡桃から毒が出れば、誰からの差し入れか調べられる。玄白の罪悪感の為だけでなく、受け取るにはだいぶ危険な贈り物だった。
『千賀も玄白も、よほど早く俺たちを殺したいらしいな』と、李山が冗談を言った。
「のう、そなん泣かんで」
罪を犯した国倫を蔑んでいるのではないか。そんな心配もした。だが、それは友の心を疑ったも同じだった。
自分は殺人という大罪を犯した。それでも、こんな風に慕ってくれる。泣いてくれる。
「わしは、果報者かもしれん」
「国倫さん・・・私は・・・」
役人が玄白の後ろで「そろそろ時間です。交代の者も来るので」と声をかけた。
「じゃあなあ。おんしは長生きせいよ」
すっと国倫は手を伸ばし、格子に指をかける玄白の手を握った。凍えた国倫の掌には、日向のように暖かな温もりだった。
「こらこら。触れてはいけません!」
玄白も、もう片方の手を国倫の手に被せ、握った。だが玄白の手は小さくて、国倫の手の甲を覆っただけだ。
「いかんと言っただろう!・・・杉田先生、頼みますよぅ」
「役人は野暮じゃのう」と国倫が悪態をつくと、玄白は笑った。睫毛に涙を宿したままで、微笑んでいた。
後ろ髪を引かれるように、振り返り、振り返り。玄白は帰って行った。幾つになっても、華奢な肩、やせた背中の、少年のような後ろ姿だ。
たくさん喋ったせいか、国倫は随分と疲れた。玄白の姿を見届けると、すうっと意識が遠くなった。
その後は、首の痛みで目覚めたり、体のだるさで気を失ったりが続き、何日たっているか感覚が掴めなかった。三、四日位はたったのだろうか。まだ、大きな痙攣は訪れない。右頬の引きつりは酷くなり、物を見るのにも難儀した。
室内なのに吐く息が白く煙った。まるで命を吐き出しているような気がした。寒さと飢えで、目も霞んだ。
窓も無いその一室で、国倫は明け方の空を見上げるようにぼんやりと宙を見つめた。壁にもたれたままで、昼か夜かわからぬ時を、うつらうつらと彷徨い続ける。
『あいつとやっとけばよかったのう・・・』
『結局それですかっ、あなたは!』
『あいつとは誰だ? まさか武助ではないだろうな』
『親友の玄白さんへの、最後の言葉がソレですかっ!?』
『キーキーわめかんでも。傷に響くけん』
『なんだ、玄白とのことか。貴様の趣味はわからん。
俺は若い頃の淳庵に未練が残る。あいつは会った頃は可愛い尻をしていた』
『まったくもう! いい加減にしてくださいーーーっ!』
性格の違う三人が、一つの体に同居する。決して仲が良いわけではなかった。反発もしたし、口論もした。だが、最期にこうして三人で寄り添って逝けることは、有り難いことだろう。他の者は皆独りで、黄泉の河を渡らねばならぬのだから。
からくり細工の玩具のように、目まぐるしく嘘臭く、華やかで大仰で、面白可笑しい人生であったことよ。
そう、楽しかった。たくさん夢を見て、走って、笑って、泣いて。
楽しかった。
意識が遠く白くなっていく。
灰色の壁と天井にぽかりと大きな穴が開き、冬の鈍い色の空が覗いたような気がした。糸の切れた紙鳶が、天に昇って行く。
時には風を切り、時には風に翻弄されて。風を読み、風を圧し、そして何より風を感じて気持ちよさそうに空を泳ぎながら。
安永八年(1779年)、十二月十八日、早朝。
風来とも紙鳶とも名乗った男が息を引き取った。
破傷風による病死とも、絶食による衰弱死とも伝えられている。
時は流れ。
黒い船がやってきて国の扉は開いた。
今では、鉄の風船が空を飛んで人を運び、行灯の菜種に代わってエレキが手元を照らし、江戸には高い塔が立ち並ぶ。
忘れられた宿場町の一画に、置き去りにされた墓がある。ゴミ集積の灰色のビルの近く、古いアパートの階段を傍らに抱き、ひっそりと佇む。
重い門柱に護られた空間は、しかし決して時間が止まっているわけではない。木々は季節に花をつけ実をもたらす。楓は色づき、八朔は黄色い果実を土の上に落とす。
人は笑うだろうか、嘆くだろうか、この男の生きざまを。
今日も空は晴れ、雲が流れて行く。
風が吹くと、薄紅色の薔薇の花びらが揺れた。
★ 完 ★
福娘紅子
2008.5.1
★ あとがき ★
★ 参考文献一覧 ★
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